「性的」のカードを使いすぎた時。
また「性的消費」という言葉がぽんぽんと飛んでいるなあ、と段々「呆れ」の段階に入っている。
件のVTuberの活動にケチをつけた上、明確な回答はしないという「あの方々」に対しては色んな方が既に語っていらっしゃるし、詳しい方のブログなども存在しているので、その辺の詳細について知りたいとか考えたい方はそちらを参考にしてもらった方がいいかと思う。
因みに私は、FtXという「肉体は女性だが精神の性別はどちらとも言えない」という人間である。
肉体だけならば同じ存在なわけだし、まあ女性が身近に感じる危機の諸々については理解や共感というか「めんどくせー!」と思うことも多い。とはいえ、それとは別として「いよいよ乱用してきているなあ」という呆れが出たのだ。
- そもそも昔から「分けられていた」
やれゾーニングだの何だのと、これもまた色々と面倒な言葉と、その裏に「綺麗な上っ面だけ見せたい」という心理がダダ漏れの出来事もあったりしたが、そもそもそういう規制に関しては元から分けられていたと思う。
見たくない人にはそれなりの配慮がされていたりしたわけで、どうしてもそこに視線が行ってしまうとしたらそれはそれで精神的に余裕が無さそうというか、逆に好きか憎んでいないと見ない場所じゃないだろうか。
ブログ記事は消してしまったらしいが小林エリコという方が『歓楽街に行けば風俗店が立ち並び』と記事内に書いていたらしいが、それこそそうやって分けて来たからこそ「行けなければ見なくて良い」状況だったわけだ。
だいたい現在の歓楽街は元々赤線だった場所だろうし、そういう意味では昔から分けられている。歓楽街もひとつの共同体であり、誰かのよすがになっているのも現実なので、それを過度に敵視するのは悪手だろう。
- 「性的」というカードは強い
こうした話題で必ず出てくるのが、「性的だ!」「性的消費だ!」という言葉だ。
よく出てくるので麻痺しそうになるが、そもそも「性的消費」とはなんだ。所謂オカズにされるかどうか、という話なのだろうか。ということは、そういうことを声高に叫んでいる人達は「これは自分達が(性的な)オカズに出来るやつだ!だからダメだ!」と判定していることになる。
人間が生き物である以上、次代に命をつなぐ為に三大欲求が存在するのは人間である限り避けては通れないものだ。Aセクシャルという人々(私はここにも該当する)もいるが、それでも別に他の誰かの好みを否定したりはしたくない。というより、否定するほど興味がないとも言えるが。
まあ、どちらにせよ人間の三大欲求である以上、それを対戦用のカード、自分の意見を通す為のカードとして使うということは、それが「強い」と分かっているからこそ使うのだと思う。
とはいえ、現実でも創作でも同じで、「強い」ものというのは使用にメリットとデメリットがあるというのは間違いない。
- 強いものの乱用からの弊害
強いものというのは、例えば何かしらの治療に関する時の治療法であったり薬であったり、「使い所に悩む」ものだと思っている。
どこでどう使うか、どう使えば一番効果が出るか。よく考えて使わないと効果が充分に発揮されない、他の部分を制限(食事制限とか)しないと逆に悪化する、というのがあるからこそ何度も医者と患者で話し合い、使用するかどうかという大前提から考えるのだ。
それくらいにはデリケートなもので、世の中の色々な「強いもの」というものが規制されているのは「全てひっくるめて悩むのはしんどいから」「使うと本当にシャレにならないから」という人間の心情も多分ある。
それだけ、扱いが難しいのだ。
なので、それを乱発するとデメリットの方が大きくなる。
性的だというのなら、それは本当にそうなのか?という様々な人の検証だったり、作品だったりキャラクターに愛情を持つ人からの反証であったり。それぐらいならまだいい。こういうことを言っている人間にとって一番まずい「またあいつら何か言ってるよ」という「世間からの無関心」が目の前に迫ってると思う程に乱発、乱用している。
強い言葉も、使い過ぎれば弱くなるのだ。治療の為に使っている薬に耐性がついて効かなくなるのと似ている。
「活動家」という人々にとって一番厄介な、「自分達を見てもらえない」がそこにあるのだ。
- 「赤白つるばみ・裏」と「フェミニストの定義」
暫く前に話題になったものに楠本まきさんの漫画の一コマが載っている「赤白つるばみ・裏」の単行本が手元にある。
話題になっていたのは漫画家のキャラクターがジェンダーバイアスについて語る場面だが、この作者さんの他の作品に触れたことのある人は「切り取りの無意味さ」と「珍しさ」を感じていたのではないだろうか。
この作品は全体的に様々な差別というか、固定観念をぶち壊すようなキャラクターが多い。「男の子はどうして泣いちゃいけないの?」「笑われるとかみっともないとか他人の評価で脅すのやめて」と言う子どもがいたり、フューシャピンクに髪を染めたおばあさんがいたり、「クソじゃない世界に生きようよ」という美大の女子生徒がいたりする。
そして、だいたい他の作品でもこの作家さんの描くキャラクターは尖っていることが多いので、全体的に見ればジェンダーバイアスについて語る漫画家のキャラクターもこの世界にはあっさりと組み込まれているのだ。
単行本をお持ちの方はあとがきを読んで納得されるのではないとか思うけれど、この作品は普遍性というより後々で「今じゃ信じられないけど、昔ってこうして固定観念と抗ってたんだ」というような方向性で描かれている。
なので、あのジェンダーバイアスについてのコマを見て何かしらムカついたりした人は、綺麗に作品の手のひらの上で踊らされていたのだと思う。
で、そこでフェミニストについて取り上げられるシーンが出てくる。それを読んでいると、「フェミニストとして活動している人」とのズレが見えたのだ。
フェミニストの定義を聞いても構わないかという人物が、それの逆や裏はどうかと考えていく。こういう人物が、あちら側……フェミニストというものを掲げて活動している人にどれだけいるだろうか。
多分これはフェミニスト以外にも当て嵌まる話で、声高に主張している人が主張することそのものに溺れて「そもそもの定義や信条」を忘れてしまっていることがあちこちで見られる。
そうなってしまうと、後に待ち受けるのは内部崩壊や消滅などであり、自浄作用が無い場所、ひとつひとつ話し合う場所がない集団が理性を捨てた群れになるのは恐らく国内外様々な歴史をちらりと見ただけでもかなりの数がありそうだ。
正直、フェミニストという概念そのものは良いものだし、私もフェミニストになるだろう。なのに、一部の人間によってそれを口に出すのが憚られる状態になっているのもつまらないというか、「余計なことをしやがって」という気持ちになってしまう。
女性の為に、ならば他にも出来ることは沢山あるはずなのだ。生理の貧困問題であるとか、性的虐待を受けた人々のケアだとか。
なのに、実際そうした問題に対しての対処をしてくれているのは他の人々で、これを規制しろ、性的消費だ、と叫ぶ人々ではない。何かあった時に助けてくれるという「シェルター」ではないと考えている人が多くなり、人々からの支持が得られないという「活動家」には一番痛いダメージが今後は今まで以上に増えるのだと思う。
とはいえそれも自業自得。呪ってきた分が自分に返ってくるのは当たり前なのだけど。