切って綴って繕って。

発達障害持ちの悪足掻き。手芸とか絵とかゲーム話とかも。セクマイ話とか。

備忘録兼ねたセルフブリーチ方法とか

派手髪といかずとも、セルフで髪を染めたり色々する人は結構いると思います。
私もセルフでブリーチしたりしますし。
ただこれ、個人差があるし目的によってはまあまあ難しい。いや、だからこそ美容師さんがいるんですけど。
なので、私の場合どうやっているかを備忘録兼ねて書いておこうと思います。
 
とりあえず、「茶髪にニュアンスで色がのるといいなあ」の人と「出来るだけ色をはっきり出したい」で分かれると思うんですが、前者はまあまあ市販のカラー剤でどうにかなる範囲(失敗しないとは言えない)ですが、後者は一旦ブリーチした方が話は早い。
ただ、ブリーチ剤でのダメージというのは結構強いわけで、髪質によっては髪の毛がびよんびよんになる……なんてこともありまして。
なので、個人の責任でやりましょう。
 
で。
セルフのブリーチ剤でやるとしても、一回のブリーチでプラチナブロンド、ほぼ真っ白みたいなのはほぼ無理でして。
あれは結構長期戦って考えた方がいいです。
だって一回のブリーチでも結構ダメージ入ってるのに、ある程度トリートメントもせずに二回目やるぜ!っていうのは髪の毛のオーバーキル案件。
最近は通販や量販店で強力なブリーチ剤も買えるようになりましたが、あれは専門知識それなりにないと失敗すると思ったほうがいいです。マジで。
なので、個人的に二回目のブリーチまで視野に入れている場合は一旦間を置いてから挑むのがいいかと。
 
じゃあどうやってるんだという話ですが、
私の場合用意するのは
・ブリーチ剤
・カラーバター
・紫シャンプー
・トリートメント
・ビニールのヘアキャップ
・ビニールの手袋
・使い捨て出来る器
・スプーン
・どうなってもいいバスタオル
辺りですね。
 
トリートメントは量販店で大容量のやつがあるのでそれでいいです。ヘアキャップや手袋などの消耗品は結構使うようになるので、数があるに越したことはないです。
タオルに関しては、普通のサイズでもいいと思うんですが……なんだかんだ便利なのでバスタオルがオススメかなと。
紫シャンプーは色素が入っているシャンプーで最近では入手しやすくなりました。別に紫系統の色にしない方でも土台作りに便利なので持ってて損はないですし、他の色のシャンプーもあるのでピンクやシルバーなどの抜けやすい色をやりたい人はそっちも用意しとくと後々の色持ちに差が出ますね。
で、この段階で何故カラーバターが入っているかと言うと、ブリーチ一回目だと大体髪色が微妙なことになっているからです。
なので、トリートメントと色の誤魔化しを兼ねて使っておくと便利かと。
とはいえ、やりたい色の方向性も考えていただいて……ブリーチ一回目だと黄色い色素が残っていることが多く、それが「田舎のヤンキー」感を出すので、それを打ち消す紫系統の色素が入っているのが使いやすいと思います。
 
で、カラーバターも色々あるんですが、個人的にはエンシェールズさんのカラーバターが気に入っています。
風呂場とかに色素がつきにくいような気がするので。
初心者にも解説動画とかを上げてくれているので、派手髪初心者には有難いんです。
 
あと、ブリーチしても色が抜けない!時間が足りなかった?みたいな理由から放置時間を延ばす人も結構いますが、あれは多分ダメージにしかならないやつで。
どちらかというと、温度が大事なんじゃないかなあと。
ほら、普通のカラー剤でも根元を塗るのは後からみたいな説明があるじゃないですか。
根元の方が暖かいからこそ、変化しやすいっていうのもあるんですよアレ。
なので、成功しやすいのは気温がそこそこ暖かい時期、そうじゃない時はブリーチ剤を塗った後でヘアキャップを被り、バスタオルとかで保温などの工夫をした方が成功率上がります。
いや、まあ私の場合ですけど。
でも、下手に時間を延ばすよりはダメージは少なくなると思うんですよね……とはいえ、ダメージがかからないわけではないですが。ブリーチするのは変わりないし。
 
どうしてもがっつり白っぽい金髪にしたいんだ!とかなら美容院行った方が早いですよ。だって専門的な薬剤使えるもん。
セルフでやるのは「自分を実験台にしてぇ!」っていうくらいの思考がないとやってられないです。
とはいえ、色々自分で遊べるのもセルフのいいところなので、勇気のある方はどうぞ。

地方と高齢ドライバー。

地方都市とも言えない地方に住んでいると、運転免許の重要性と所持しているかどうかを痛感します。

幾つかの都市部を除いて車の所持率というのは90%越えをしているところが多いというデータもあるらしいので、ある程度の差はあるかもしれないけれど「地方故の問題」としてあちこちにあるのかもしれないんですが。

因みに私は運転免許を持ってない……というか、持てていないです。身体感覚が弱すぎて「乗っている車の大きさはだいたいこれぐらい」という感覚が全く掴めず、事故を起こす道しか見えないので。

スポーツで使うバットやラケットも同じく一切感覚が掴めない。「視界に入らなければ全く認識出来ない」ということなんですよ。

 

で、この運転免許の有無というのが生活というか日常活動の快適度に直結するのが地方だったりするんですね。

スーパーに食料品を買いに行くとしても、何かしらの日用品を買いに行くとしても。ちょっと服が欲しいと買いに行くとしても、車で行かないと難しいということがまあまあ多い。

というのも、公共交通機関がびっくりするほど機能していないからで。

 

本数が少なく、あちこちの地域をカバーしているわけでもない。それが地方の公共交通機関です。

地下鉄?そんなハイカラなものはないんですよ。列車も限られた路線しかないですし、何なら私の住んでいる地域は新幹線にハブられています。

そうなってくると、バスを頼りにするしかないわけで。

体力の有り余った学生さんなんかは、ありえない距離を自転車で駆け回ったりするんですけどね。さすがにそれでも無理があるわけです。

 

新型コロナの影響もあってバスの本数が減ったりもしたんですが……それはまあご時世だから仕方ないとしても、その前から本数は少なかった。

都市部の方が想像するバスの路線や本数の少なさより、その半分もないと思って貰えれば伝わるでしょうか。

行動に支障が出る程に本数が少ないので、自家用車がないと生活に関わるんです。仕事だけでなく、日常生活を送る上での必需品。

以前、高卒だかで親に車を買ってもらった方について「贅沢だ」と非難していた方もいらっしゃいましたが、地方の人間からすれば「運転免許が取れる年齢になったら取得するのが当たり前」「仕事にも生活にも影響するので(最初はちょっと凹んだりしてもいいように中古車とかで、が特に多い)車は必要だから出してやる」が結構基本の考えだったりするんですよね。

 

とはいえ、年齢を重ねてくると色々支障が出てきて運転にも影響するようになるのはニュースなどでご存知の通りです。

事故そのものは確かに問題ですし、被害が出ているなら尚更なわけですが……場合によっては高齢ドライバーも「嫌だけれど運転するしかない」という立ち位置にいる可能性があるんです。

 

先日外出した際に、バス停でとある老夫婦と出会いました。

「○○行きのバスはいつ来るだろうか」と聞かれて時刻表を見てみれば、一時間近く無いんです。

二人ともかなりのお年なのか杖をつき、足元も危うい状態で。免許があっても運転出来ない身体だというのは車の運転が出来ない私でも分かります。

そんなに無いのかあ、と気を落とす老夫婦の姿にどこか諦め以上のものを感じてしまいました。

年齢も年齢だし、身体にもそれなりに不調はあるし、いい加減免許も返納したい。けれど、運転しなければ生活がままならない。

地方の高齢ドライバーの方々は、多かれ少なかれそうした気持ちを抱えていると思います。

高齢ドライバーの事故を防ぐ為に免許を返納してもらおうという動きはいいと思うんですよ。でも、そこに対する全体的なサポートが希薄だと返したくても返せないよなあと思ってしまうんです。

一時的な何かしらのプレゼントではなく、公共交通機関の充実という方向でサポートがないと厳しいと思うんですよね。

 

まあ、その公共交通機関がまともに機能していないのが地方なんですけどね……。

 

「性的」のカードを使いすぎた時。

 

また「性的消費」という言葉がぽんぽんと飛んでいるなあ、と段々「呆れ」の段階に入っている。

件のVTuberの活動にケチをつけた上、明確な回答はしないという「あの方々」に対しては色んな方が既に語っていらっしゃるし、詳しい方のブログなども存在しているので、その辺の詳細について知りたいとか考えたい方はそちらを参考にしてもらった方がいいかと思う。

 

因みに私は、FtXという「肉体は女性だが精神の性別はどちらとも言えない」という人間である。

肉体だけならば同じ存在なわけだし、まあ女性が身近に感じる危機の諸々については理解や共感というか「めんどくせー!」と思うことも多い。とはいえ、それとは別として「いよいよ乱用してきているなあ」という呆れが出たのだ。

 

  • そもそも昔から「分けられていた」

やれゾーニングだの何だのと、これもまた色々と面倒な言葉と、その裏に「綺麗な上っ面だけ見せたい」という心理がダダ漏れの出来事もあったりしたが、そもそもそういう規制に関しては元から分けられていたと思う。

見たくない人にはそれなりの配慮がされていたりしたわけで、どうしてもそこに視線が行ってしまうとしたらそれはそれで精神的に余裕が無さそうというか、逆に好きか憎んでいないと見ない場所じゃないだろうか。

ブログ記事は消してしまったらしいが小林エリコという方が『歓楽街に行けば風俗店が立ち並び』と記事内に書いていたらしいが、それこそそうやって分けて来たからこそ「行けなければ見なくて良い」状況だったわけだ。

だいたい現在の歓楽街は元々赤線だった場所だろうし、そういう意味では昔から分けられている。歓楽街もひとつの共同体であり、誰かのよすがになっているのも現実なので、それを過度に敵視するのは悪手だろう。

 

  • 「性的」というカードは強い

こうした話題で必ず出てくるのが、「性的だ!」「性的消費だ!」という言葉だ。

よく出てくるので麻痺しそうになるが、そもそも「性的消費」とはなんだ。所謂オカズにされるかどうか、という話なのだろうか。ということは、そういうことを声高に叫んでいる人達は「これは自分達が(性的な)オカズに出来るやつだ!だからダメだ!」と判定していることになる。

人間が生き物である以上、次代に命をつなぐ為に三大欲求が存在するのは人間である限り避けては通れないものだ。Aセクシャルという人々(私はここにも該当する)もいるが、それでも別に他の誰かの好みを否定したりはしたくない。というより、否定するほど興味がないとも言えるが。

まあ、どちらにせよ人間の三大欲求である以上、それを対戦用のカード、自分の意見を通す為のカードとして使うということは、それが「強い」と分かっているからこそ使うのだと思う。

とはいえ、現実でも創作でも同じで、「強い」ものというのは使用にメリットとデメリットがあるというのは間違いない。

 

  • 強いものの乱用からの弊害

強いものというのは、例えば何かしらの治療に関する時の治療法であったり薬であったり、「使い所に悩む」ものだと思っている。

どこでどう使うか、どう使えば一番効果が出るか。よく考えて使わないと効果が充分に発揮されない、他の部分を制限(食事制限とか)しないと逆に悪化する、というのがあるからこそ何度も医者と患者で話し合い、使用するかどうかという大前提から考えるのだ。

それくらいにはデリケートなもので、世の中の色々な「強いもの」というものが規制されているのは「全てひっくるめて悩むのはしんどいから」「使うと本当にシャレにならないから」という人間の心情も多分ある。

それだけ、扱いが難しいのだ。

なので、それを乱発するとデメリットの方が大きくなる。

性的だというのなら、それは本当にそうなのか?という様々な人の検証だったり、作品だったりキャラクターに愛情を持つ人からの反証であったり。それぐらいならまだいい。こういうことを言っている人間にとって一番まずい「またあいつら何か言ってるよ」という「世間からの無関心」が目の前に迫ってると思う程に乱発、乱用している。

強い言葉も、使い過ぎれば弱くなるのだ。治療の為に使っている薬に耐性がついて効かなくなるのと似ている。

「活動家」という人々にとって一番厄介な、「自分達を見てもらえない」がそこにあるのだ。

 

暫く前に話題になったものに楠本まきさんの漫画の一コマが載っている「赤白つるばみ・裏」の単行本が手元にある。

話題になっていたのは漫画家のキャラクターがジェンダーバイアスについて語る場面だが、この作者さんの他の作品に触れたことのある人は「切り取りの無意味さ」と「珍しさ」を感じていたのではないだろうか。

この作品は全体的に様々な差別というか、固定観念をぶち壊すようなキャラクターが多い。「男の子はどうして泣いちゃいけないの?」「笑われるとかみっともないとか他人の評価で脅すのやめて」と言う子どもがいたり、フューシャピンクに髪を染めたおばあさんがいたり、「クソじゃない世界に生きようよ」という美大の女子生徒がいたりする。

そして、だいたい他の作品でもこの作家さんの描くキャラクターは尖っていることが多いので、全体的に見ればジェンダーバイアスについて語る漫画家のキャラクターもこの世界にはあっさりと組み込まれているのだ。

単行本をお持ちの方はあとがきを読んで納得されるのではないとか思うけれど、この作品は普遍性というより後々で「今じゃ信じられないけど、昔ってこうして固定観念と抗ってたんだ」というような方向性で描かれている。

なので、あのジェンダーバイアスについてのコマを見て何かしらムカついたりした人は、綺麗に作品の手のひらの上で踊らされていたのだと思う。

で、そこでフェミニストについて取り上げられるシーンが出てくる。それを読んでいると、「フェミニストとして活動している人」とのズレが見えたのだ。

フェミニストの定義を聞いても構わないかという人物が、それの逆や裏はどうかと考えていく。こういう人物が、あちら側……フェミニストというものを掲げて活動している人にどれだけいるだろうか。

多分これはフェミニスト以外にも当て嵌まる話で、声高に主張している人が主張することそのものに溺れて「そもそもの定義や信条」を忘れてしまっていることがあちこちで見られる。

そうなってしまうと、後に待ち受けるのは内部崩壊や消滅などであり、自浄作用が無い場所、ひとつひとつ話し合う場所がない集団が理性を捨てた群れになるのは恐らく国内外様々な歴史をちらりと見ただけでもかなりの数がありそうだ。

 

正直、フェミニストという概念そのものは良いものだし、私もフェミニストになるだろう。なのに、一部の人間によってそれを口に出すのが憚られる状態になっているのもつまらないというか、「余計なことをしやがって」という気持ちになってしまう。

女性の為に、ならば他にも出来ることは沢山あるはずなのだ。生理の貧困問題であるとか、性的虐待を受けた人々のケアだとか。

なのに、実際そうした問題に対しての対処をしてくれているのは他の人々で、これを規制しろ、性的消費だ、と叫ぶ人々ではない。何かあった時に助けてくれるという「シェルター」ではないと考えている人が多くなり、人々からの支持が得られないという「活動家」には一番痛いダメージが今後は今まで以上に増えるのだと思う。

とはいえそれも自業自得。呪ってきた分が自分に返ってくるのは当たり前なのだけど。

 

 

アニメ映画のせいというよりも、「ウサギと亀」だ。

「アニメ映画のせいで小さな映画、実写の人たちが排除されたから映画館を危機に陥れた」
 
とあるプロデューサーの発言が、あちこちの着火剤となり炎上した。
まあ、SNSで炎上してでも自分に目を向けさせたい……注目を浴びたい、そういうことならそういう人もいるので「やはり何よりもやばいのはシャバなのでは?」と思うだけで済む。
 
思うのだけれど、私もその発言に「は?」と苛立ってしまった。
 
やっと観れた映画のことを思い出したからだ。
「JUNK HEAD」
所謂、小さな映画館でしか上映されないタイプの映画で、ストップモーション作品ということもあり、あのプロデューサーが言う「実写」とはまた違うのかもしれないが。
 
やっと地方でも観ることが出来る、今まで映像作品を発表したことがないという人の作品。SNSでちらほらと話題になっていたからこそ、いつ何処で観れるのか、と必死に検索して予定も体調不良もねじ曲げて観に行った。
そこには、映像をどうやって作っているのか考えている余裕すらない世界があった。
上映後のパンフレットも購入して、記念にとチラシを手にとって。
嫌な予感がした。
 
「海外からの逆輸入!」
 
チラシに書かれたその一文で、「もしかして、邦画の世界はとてつもなく小さいのでは?」と「狭さ」に気付かされてしまった。
 
確かに、邦画というか日本ではストップモーション作品が盛んではないかもしれない。最近でこそモルカーの人気である程度知られるようになったとはいえ、あとは「ニャッキ!」くらいの認知度の可能性がある。
制作するにしても、ストップモーションをやるくらいならそれなりの人数を集めて実写にした方が質はどうであれ手間がかからない。
海外の場合、何人かストップモーション作品の有名人も存在しているので(クエイ兄弟など)、そういうものを受け入れる土壌があったからこの作品も海外で人気を得たのかもしれない。
 
邦画とは一体何だろう。
そんなことを思ってしまう。
 
実写映画で好みの作品に出会ったこともある。
アニメ映画でも、心を打たれたことがある。
 
私が嫌なのは、「自分達の認めるものが良いもの、上級なもので、そうでないものは下流。だから貶していい。槍玉にあげてもいい」というような精神が透けて見えるのが嫌なのだろう。
 
「寅さん」は俳句の季語だという。毎年正月に「男はつらいよ」が上映されたからだそうだ。
多分、「釣りバカ」も同じ流れを汲んでいると思う。
そして、この二つの作品は「実写」であり「人気作品」だ。
この二つの作品そのものが悪いわけではない。
ただ、この人気にあてられてしまった何者かが「実写の邦画こそ至高!アニメ映画はその下!」と考えてしまった可能性はかなりある。
 
とはいえ、現代の実写映画も実写ドラマもアニメやマンガの実写化だったりすることが多いのだけれど。
そうして考えると、一から実写作品を作る土壌が少ないというか貧しいのが邦画の弱点なのかもしれない。実写作品を出し、それを大きな映画館で行えるかとなると、土壌の豊かさがある分アニメ映画の方が強く育ってしまうのはある程度仕方ないというか、「あるべき状態になった」だけかもしれない。
 
実写映画の土壌を豊かにすることを疎かにしてきた、実写映画以外を下に見た、どちらかならばまだどうにかなったかもしれないが、二つも揃ってしまった時点で気付くべきだったのだ。
自分達が守りたいものの為に何をしなければならなかったのか。
だから、大きな映画館ではアニメ映画が色々上映され、小さい映画館でも海外の作品や少し癖のある(好みが分かれる)作品を流したりする。「映画好き」は自分の好きなものを観るために映画館に足を運ぶのであって、「実写の邦画」だから観るわけではない。
 
馬鹿馬鹿しい、所詮サブカルチャー
 
きっと、そう思った時点で彼等は「止まってしまった」のだ。
どんなことであれ、続けること、止まらないこと、失敗しても続けるのが何より重要な才能だと言われることがある。
ということは、自分達のものこそ至高と笑って足を止めた時点で彼等は自ら才能を手放してもいるのかもしれない。
そうなれば、あっという間に追い抜かれるのは当たり前だ。ただ歩みを止めなかったものが他にいたのだから。

制服と難易度。

先日、「FGOの映画を観に行かなければ!」と予定を無理矢理終わらせてバスに乗り込んだ。
 
昼過ぎというよりは夕方に近かったので、街には学生の姿があちこちにあり、映画館の方向へのバス停にも学生はいた。
そこで、おや?と気が付いたのが制服だ。
 
私の周りには現役の学生もいなく、またその辺りの業界に関わっている人もいない。なので、自分が学生の頃ならまだ多少分かっただろうが今となってはどの制服がどの学校か、なんて分からなくなっている。制服そのものも変わっているだろうし。
 
女子生徒の中に、スラックスを穿いている生徒がいた。
 
それがあまりにも自然で、当たり前のことのようで嬉しかったというと疑問を持つ人と、同じ気持ちになってくれる誰かがいると思う。
 
 
FtMだとかMtFXジェンダー……所謂LGBTという枠にいると、制服というのはなかなか避けて通れない問題として降りかかってくる。
私ももれなくその一人で、制服のスカートが苦手だった。中学の頃は同級生の女子生徒が先生たちの注意を受けながらも短くしようとしている中で、その気持ちも分からず寧ろ服装規定を余裕で合格出来る程にスカート丈は長かった。
高校は色々あって少し変わった学校にいたのだが、そこは制服はあるけれど行事のある日にきちんと着てくれればあとは自由という学校だったので、上は着るが下はズボンで通うことが多かった。
その影響で、たまに普通に制服を着てくるとクラスメイトから「今日って何かあったっけ?」と聞かれたりしたのだけれど。
とはいえ、そうした服装規定のおかげで精神的にはかなり助けられたと思う。
けれど、こうした学校の方が少ない。もしかしたら今なら少なかったと言えるのかもしれないけれど、まあ地方というか田舎ではこんなものだよなと思っていたのだ。
 
だからこそ、その明らかに制服のスラックスを着用している生徒を見て、安心させられた。少なくとも、私たちの時よりしんどくない場所が増えているのだと思えた。
 
こうした界隈もグラデーションというか、性転換手術を全てやらないと嫌だという人もいれば、ある程度でいい人もいる。あと、これはXジェンダーに近いというか線引きが難しいけれど、服装の問題さえどうにか出来れば、くらいの人もいる。
こんな挙げればキリのない界隈だけれど、ただでさえ忙しくしんどいことが多い学生時代にひとつの大きなストレス対策が出来るならそれはそれでありがたいことだ。
 
そう、ありがたいことだ。
 
だから、ふと思ったのは「MtFやMtXは?」だった。
 
考えてみると、男子生徒の方が服装規定というか選択肢が少ない気がする。
例えば、女子なら髪の長い生徒は結べばOKだ。
でも、男子生徒にはそれがない。そもそも、髪を伸ばす生徒というのが想定されていないんじゃないかと思う。
甲子園野球なんかを眺めて見ても、選手はだいたい坊主頭で。なんというか、そこも含めてエンタメとなっているような気分になるのだ。
確かにまあ、社会全体を見ても地毛が長い男性というのは少数派だと思う。武士とかなら髷のためとかで長さはあったけどね。文明開化の音と共に切られてしまったからね。
 
とはいえ、社会全体をぼんやり眺めても細かな所で男性の選択肢が少ないというか、少ないままなのでは?と思ってしまう。
そういう、限られたおしゃれをやるのもひとつの美ではあるけれど。
 
海外の一部、勢いのいい方々の中には「心の性別と身体の性別が違うなら、子供のうちからホルモン治療をすべきだ!」と本当にやってしまっている人もいるらしい。
そりゃあ、そういうことをした方が後々適合手術とか楽になるかもしれない。かもしれない。個人的には、あまり賛同出来ないから、かもしれないになる。
 
ただただ成長するだけでも人間なんてものは大変なのに、そこにホルモン治療というものを持ってくるなんて、医学知識が少ない人間でもかなり無茶をしていると思う。
身体が出来上がってからでも、何かあった時に簡単に崩れるのがホルモンバランスなのだし。人間のかなり繊細な部分に関わっていることぐらいは分かる。
それなのに、性別云々の前にその子どもが一人の人間として様々なものを見聞きして収集して自我を作り上げて行く前に、大人が過剰反応して「治療」という名の横槍を入れるのは、なんとなくロボトミーが治療として都合良く使われていたことを連想させる。
 
確かに、性別の違和を持つ子どもはいるだろうし、明らかにそうだと思わせる言動をするだろう。でも、どうするか、何をしたいかはその子ども本人が決めるべきで、周りの大人が余計なことをしない方がいいと思う。
 
周りの大人の「優しさ」が本人にとって「猛毒」だったなんて話、どの界隈でもあるように。
 
この辺、考えすぎると難しいので男子生徒の場合どうにか出来ないかに戻ろうと思う。
身体が男性であるとはいえ、心の性別がそれ以外……という人はそれなりにいるけれど、声を上げにくいというのが多少はあるんじゃないかと考えている。とはいえ、全てを解決なんてそんな魔法はないとしても、妥協策というか単純に選択肢が増えればいいんじゃないかとも。
女子生徒のスカートをそのまま男子生徒も着用可、が一番手っ取り早いのだろうけど、それだと余程覚悟が決まっていない限り「異物」としていじめの標的になりかねない。だいたい、いじめって異物探しから始まるし。
 
なので、どうせなら男女兼用でロングスカートが導入されればハードルは下がるんじゃないかと思う。女子生徒でも、スカート丈が選べるならそれはそれで嬉しい人もいるんじゃないだろうか。
「ロングスカート制服=スケバン」なんていう連想をする年代がいるとしても、まあだいたいその世代が今学生を育てているかと言えばそれもかなり少ないだろうし。
 
幼少期から無茶なことをする、というかさせられるよりも、無理のない選択肢を増やした方がいいと思うのだ。
 
 

虎の威を借る、が「分からない」

 

たまに、というかまあそれなりに生きていると実際にでも、人づてに聞く話だったりに「虎の威を借る」というか「他人のふんどしで相撲を取る」みたいな人が現れたりします。

 

色んな人が色んなやり方で生きていくのはある種「あるべきだ」と思っているので、それがその人の生き方だというのなら咎められないとも思うんですが。

個人的に、それって楽しいのかなと首を傾げます。

寧ろ、デメリットの方が大きいのでは、とさえ。

 

確かに、誰か有名な人の名前を出すとか、そうした方が「自分もそのくらいに知名度というか他者からの認識度が上がる」という意味では最短ルートかもしれません。

でも、これって認識される最短ルートだからこそとんでもねえデメリットがあると思うんですよ。

単純に、その本人にそれなりの中身が伴っていないとそれが秒でバレるという。

 

その人が自分の知名度を上げる為に使う「誰か」はそれぞれに努力していたり、実績があったり、人格者だったり、カリスマ性があったり……まあ色々あるでしょうがどちらにせよ何かしらの「中身」があるんですよね。

「じゃあ、その人の名前を出すあなたは?」になっちゃうんですよ。これが他の方法を取るよりめちゃくちゃ早い。

本人が本人なりに何か努力していたり、何かあればまだいいんですよ。それが小さなものでも、なんでもいいんです。本人の芯が見えるものがあれば、それだけで。

でも、観測出来る範囲でそういう人……驚く程本人に何も無かったりするんですよね。何も無いどころか、「自己顕示欲」の塊だったりもう少し言えば「楽してちやほやされたい」という願望だけの人だったり。

 

だから、本人に興味を持って関わってみると「え?」ってなることがあります。

他の人の話を除外した、その人が何者かっていうところに興味を持ってみたらガラクタしか出てこないみたいな。

「お前は一体誰なんだ」と問いただしたくなる。

別に、分かりやすい活動をしていなくても、何かをしていてそれが上手く実を結んでいなくてもいいんですよ。

こんなことを書いている私も、迷走しまくっているわけですから。似たような者。

でも、空っぽだったりただの欲しかないのを見ると、さすがに「それは名前を出す人達に失礼じゃないか?」と思うわけです。

 

で、人に対してあまり関心がない私でさえそう思うわけですから、そうでもない人の反応を考えると……人気を得ようとしたのに嫌われる、というパターンが発生していてもおかしくはないよなあと思うわけです。

でも、結構いるよなあこういう人……

 

発動!片付けモード!

 

不定期にではあるんですが、時折訪れるそれを私は「片付けモード」と呼んでいます。

転勤族の家庭育ちだからなのか、引っ越し作業とまでは行かずとも物が多くあることへの不安感とか、そういうのが原因なのかもしれませんが「やらねば燻る」ので始末が悪いシロモノです。

 

一般的に「片付けが出来ない」と言われることが多い発達障害ですが、多分片付けに「こだわり」がある人はこの辺そうでもないんじゃないかなあと思っています。

因みに、私の場合は片付けというより物の要不要を確認したい、場合によっては処分したいが衝動の原因なんじゃないかと思うので片付けそのものは下手です。

 

あと、収納とかディスプレイとかね。びっくりするほど下手。

オタクでもあるのでそういうグッズのディスプレイとか憧れるんですけどね、そういう経験が少ないこともあってか下手。

 

まあ、よく雑誌でも紹介されるようなオシャレな部屋を作れるわけではないということです。

いや、寧ろああいうタイプの部屋は……勿論これはその人の特性によって違うと思うので一概には言えないんですが、発達障害当事者向きの部屋作りとは違うかも……と思っています。

私の場合何かを部屋の中で無くしたりとか、何処に置いたっけみたいなことは少ないんですが、「見えないものは分からない」みたいなものがあるので「オシャレにこんなアイテム使って目隠し!」みたいなことをやってみようとすると、その試みが失敗することが多いです。

 

なので、出来る限り中身が分かる……とはいえ多少は目隠しじゃないけれどもそうした要素を求めたい……みたいな思考の結果、半透明のボックスだとかカゴというようなものに助けを求めることが多いです。

なんとなく、中身に何が入っていたか把握出来るので。

可視化しないと、ってのが強いんですよね。

 

因みに、この「片付けモード」はある程度のラインに達しない限り続くという厄介なやつです。

また今回は抗うつ剤を止めて別の薬が処方されたからか、「今後のことをよく考えた上での片付けに至らないと許せない」に達成ラインがあるようで、自分と向き合うという厄介さを抱えながらの作業です。

でもやらなきゃね。