備忘録兼ねたセルフブリーチ方法とか
地方と高齢ドライバー。
地方都市とも言えない地方に住んでいると、運転免許の重要性と所持しているかどうかを痛感します。
幾つかの都市部を除いて車の所持率というのは90%越えをしているところが多いというデータもあるらしいので、ある程度の差はあるかもしれないけれど「地方故の問題」としてあちこちにあるのかもしれないんですが。
因みに私は運転免許を持ってない……というか、持てていないです。身体感覚が弱すぎて「乗っている車の大きさはだいたいこれぐらい」という感覚が全く掴めず、事故を起こす道しか見えないので。
スポーツで使うバットやラケットも同じく一切感覚が掴めない。「視界に入らなければ全く認識出来ない」ということなんですよ。
で、この運転免許の有無というのが生活というか日常活動の快適度に直結するのが地方だったりするんですね。
スーパーに食料品を買いに行くとしても、何かしらの日用品を買いに行くとしても。ちょっと服が欲しいと買いに行くとしても、車で行かないと難しいということがまあまあ多い。
というのも、公共交通機関がびっくりするほど機能していないからで。
本数が少なく、あちこちの地域をカバーしているわけでもない。それが地方の公共交通機関です。
地下鉄?そんなハイカラなものはないんですよ。列車も限られた路線しかないですし、何なら私の住んでいる地域は新幹線にハブられています。
そうなってくると、バスを頼りにするしかないわけで。
体力の有り余った学生さんなんかは、ありえない距離を自転車で駆け回ったりするんですけどね。さすがにそれでも無理があるわけです。
新型コロナの影響もあってバスの本数が減ったりもしたんですが……それはまあご時世だから仕方ないとしても、その前から本数は少なかった。
都市部の方が想像するバスの路線や本数の少なさより、その半分もないと思って貰えれば伝わるでしょうか。
行動に支障が出る程に本数が少ないので、自家用車がないと生活に関わるんです。仕事だけでなく、日常生活を送る上での必需品。
以前、高卒だかで親に車を買ってもらった方について「贅沢だ」と非難していた方もいらっしゃいましたが、地方の人間からすれば「運転免許が取れる年齢になったら取得するのが当たり前」「仕事にも生活にも影響するので(最初はちょっと凹んだりしてもいいように中古車とかで、が特に多い)車は必要だから出してやる」が結構基本の考えだったりするんですよね。
とはいえ、年齢を重ねてくると色々支障が出てきて運転にも影響するようになるのはニュースなどでご存知の通りです。
事故そのものは確かに問題ですし、被害が出ているなら尚更なわけですが……場合によっては高齢ドライバーも「嫌だけれど運転するしかない」という立ち位置にいる可能性があるんです。
先日外出した際に、バス停でとある老夫婦と出会いました。
「○○行きのバスはいつ来るだろうか」と聞かれて時刻表を見てみれば、一時間近く無いんです。
二人ともかなりのお年なのか杖をつき、足元も危うい状態で。免許があっても運転出来ない身体だというのは車の運転が出来ない私でも分かります。
そんなに無いのかあ、と気を落とす老夫婦の姿にどこか諦め以上のものを感じてしまいました。
年齢も年齢だし、身体にもそれなりに不調はあるし、いい加減免許も返納したい。けれど、運転しなければ生活がままならない。
地方の高齢ドライバーの方々は、多かれ少なかれそうした気持ちを抱えていると思います。
高齢ドライバーの事故を防ぐ為に免許を返納してもらおうという動きはいいと思うんですよ。でも、そこに対する全体的なサポートが希薄だと返したくても返せないよなあと思ってしまうんです。
一時的な何かしらのプレゼントではなく、公共交通機関の充実という方向でサポートがないと厳しいと思うんですよね。
まあ、その公共交通機関がまともに機能していないのが地方なんですけどね……。
「性的」のカードを使いすぎた時。
また「性的消費」という言葉がぽんぽんと飛んでいるなあ、と段々「呆れ」の段階に入っている。
件のVTuberの活動にケチをつけた上、明確な回答はしないという「あの方々」に対しては色んな方が既に語っていらっしゃるし、詳しい方のブログなども存在しているので、その辺の詳細について知りたいとか考えたい方はそちらを参考にしてもらった方がいいかと思う。
因みに私は、FtXという「肉体は女性だが精神の性別はどちらとも言えない」という人間である。
肉体だけならば同じ存在なわけだし、まあ女性が身近に感じる危機の諸々については理解や共感というか「めんどくせー!」と思うことも多い。とはいえ、それとは別として「いよいよ乱用してきているなあ」という呆れが出たのだ。
- そもそも昔から「分けられていた」
やれゾーニングだの何だのと、これもまた色々と面倒な言葉と、その裏に「綺麗な上っ面だけ見せたい」という心理がダダ漏れの出来事もあったりしたが、そもそもそういう規制に関しては元から分けられていたと思う。
見たくない人にはそれなりの配慮がされていたりしたわけで、どうしてもそこに視線が行ってしまうとしたらそれはそれで精神的に余裕が無さそうというか、逆に好きか憎んでいないと見ない場所じゃないだろうか。
ブログ記事は消してしまったらしいが小林エリコという方が『歓楽街に行けば風俗店が立ち並び』と記事内に書いていたらしいが、それこそそうやって分けて来たからこそ「行けなければ見なくて良い」状況だったわけだ。
だいたい現在の歓楽街は元々赤線だった場所だろうし、そういう意味では昔から分けられている。歓楽街もひとつの共同体であり、誰かのよすがになっているのも現実なので、それを過度に敵視するのは悪手だろう。
- 「性的」というカードは強い
こうした話題で必ず出てくるのが、「性的だ!」「性的消費だ!」という言葉だ。
よく出てくるので麻痺しそうになるが、そもそも「性的消費」とはなんだ。所謂オカズにされるかどうか、という話なのだろうか。ということは、そういうことを声高に叫んでいる人達は「これは自分達が(性的な)オカズに出来るやつだ!だからダメだ!」と判定していることになる。
人間が生き物である以上、次代に命をつなぐ為に三大欲求が存在するのは人間である限り避けては通れないものだ。Aセクシャルという人々(私はここにも該当する)もいるが、それでも別に他の誰かの好みを否定したりはしたくない。というより、否定するほど興味がないとも言えるが。
まあ、どちらにせよ人間の三大欲求である以上、それを対戦用のカード、自分の意見を通す為のカードとして使うということは、それが「強い」と分かっているからこそ使うのだと思う。
とはいえ、現実でも創作でも同じで、「強い」ものというのは使用にメリットとデメリットがあるというのは間違いない。
- 強いものの乱用からの弊害
強いものというのは、例えば何かしらの治療に関する時の治療法であったり薬であったり、「使い所に悩む」ものだと思っている。
どこでどう使うか、どう使えば一番効果が出るか。よく考えて使わないと効果が充分に発揮されない、他の部分を制限(食事制限とか)しないと逆に悪化する、というのがあるからこそ何度も医者と患者で話し合い、使用するかどうかという大前提から考えるのだ。
それくらいにはデリケートなもので、世の中の色々な「強いもの」というものが規制されているのは「全てひっくるめて悩むのはしんどいから」「使うと本当にシャレにならないから」という人間の心情も多分ある。
それだけ、扱いが難しいのだ。
なので、それを乱発するとデメリットの方が大きくなる。
性的だというのなら、それは本当にそうなのか?という様々な人の検証だったり、作品だったりキャラクターに愛情を持つ人からの反証であったり。それぐらいならまだいい。こういうことを言っている人間にとって一番まずい「またあいつら何か言ってるよ」という「世間からの無関心」が目の前に迫ってると思う程に乱発、乱用している。
強い言葉も、使い過ぎれば弱くなるのだ。治療の為に使っている薬に耐性がついて効かなくなるのと似ている。
「活動家」という人々にとって一番厄介な、「自分達を見てもらえない」がそこにあるのだ。
- 「赤白つるばみ・裏」と「フェミニストの定義」
暫く前に話題になったものに楠本まきさんの漫画の一コマが載っている「赤白つるばみ・裏」の単行本が手元にある。
話題になっていたのは漫画家のキャラクターがジェンダーバイアスについて語る場面だが、この作者さんの他の作品に触れたことのある人は「切り取りの無意味さ」と「珍しさ」を感じていたのではないだろうか。
この作品は全体的に様々な差別というか、固定観念をぶち壊すようなキャラクターが多い。「男の子はどうして泣いちゃいけないの?」「笑われるとかみっともないとか他人の評価で脅すのやめて」と言う子どもがいたり、フューシャピンクに髪を染めたおばあさんがいたり、「クソじゃない世界に生きようよ」という美大の女子生徒がいたりする。
そして、だいたい他の作品でもこの作家さんの描くキャラクターは尖っていることが多いので、全体的に見ればジェンダーバイアスについて語る漫画家のキャラクターもこの世界にはあっさりと組み込まれているのだ。
単行本をお持ちの方はあとがきを読んで納得されるのではないとか思うけれど、この作品は普遍性というより後々で「今じゃ信じられないけど、昔ってこうして固定観念と抗ってたんだ」というような方向性で描かれている。
なので、あのジェンダーバイアスについてのコマを見て何かしらムカついたりした人は、綺麗に作品の手のひらの上で踊らされていたのだと思う。
で、そこでフェミニストについて取り上げられるシーンが出てくる。それを読んでいると、「フェミニストとして活動している人」とのズレが見えたのだ。
フェミニストの定義を聞いても構わないかという人物が、それの逆や裏はどうかと考えていく。こういう人物が、あちら側……フェミニストというものを掲げて活動している人にどれだけいるだろうか。
多分これはフェミニスト以外にも当て嵌まる話で、声高に主張している人が主張することそのものに溺れて「そもそもの定義や信条」を忘れてしまっていることがあちこちで見られる。
そうなってしまうと、後に待ち受けるのは内部崩壊や消滅などであり、自浄作用が無い場所、ひとつひとつ話し合う場所がない集団が理性を捨てた群れになるのは恐らく国内外様々な歴史をちらりと見ただけでもかなりの数がありそうだ。
正直、フェミニストという概念そのものは良いものだし、私もフェミニストになるだろう。なのに、一部の人間によってそれを口に出すのが憚られる状態になっているのもつまらないというか、「余計なことをしやがって」という気持ちになってしまう。
女性の為に、ならば他にも出来ることは沢山あるはずなのだ。生理の貧困問題であるとか、性的虐待を受けた人々のケアだとか。
なのに、実際そうした問題に対しての対処をしてくれているのは他の人々で、これを規制しろ、性的消費だ、と叫ぶ人々ではない。何かあった時に助けてくれるという「シェルター」ではないと考えている人が多くなり、人々からの支持が得られないという「活動家」には一番痛いダメージが今後は今まで以上に増えるのだと思う。
とはいえそれも自業自得。呪ってきた分が自分に返ってくるのは当たり前なのだけど。
アニメ映画のせいというよりも、「ウサギと亀」だ。
制服と難易度。
虎の威を借る、が「分からない」
たまに、というかまあそれなりに生きていると実際にでも、人づてに聞く話だったりに「虎の威を借る」というか「他人のふんどしで相撲を取る」みたいな人が現れたりします。
色んな人が色んなやり方で生きていくのはある種「あるべきだ」と思っているので、それがその人の生き方だというのなら咎められないとも思うんですが。
個人的に、それって楽しいのかなと首を傾げます。
寧ろ、デメリットの方が大きいのでは、とさえ。
確かに、誰か有名な人の名前を出すとか、そうした方が「自分もそのくらいに知名度というか他者からの認識度が上がる」という意味では最短ルートかもしれません。
でも、これって認識される最短ルートだからこそとんでもねえデメリットがあると思うんですよ。
単純に、その本人にそれなりの中身が伴っていないとそれが秒でバレるという。
その人が自分の知名度を上げる為に使う「誰か」はそれぞれに努力していたり、実績があったり、人格者だったり、カリスマ性があったり……まあ色々あるでしょうがどちらにせよ何かしらの「中身」があるんですよね。
「じゃあ、その人の名前を出すあなたは?」になっちゃうんですよ。これが他の方法を取るよりめちゃくちゃ早い。
本人が本人なりに何か努力していたり、何かあればまだいいんですよ。それが小さなものでも、なんでもいいんです。本人の芯が見えるものがあれば、それだけで。
でも、観測出来る範囲でそういう人……驚く程本人に何も無かったりするんですよね。何も無いどころか、「自己顕示欲」の塊だったりもう少し言えば「楽してちやほやされたい」という願望だけの人だったり。
だから、本人に興味を持って関わってみると「え?」ってなることがあります。
他の人の話を除外した、その人が何者かっていうところに興味を持ってみたらガラクタしか出てこないみたいな。
「お前は一体誰なんだ」と問いただしたくなる。
別に、分かりやすい活動をしていなくても、何かをしていてそれが上手く実を結んでいなくてもいいんですよ。
こんなことを書いている私も、迷走しまくっているわけですから。似たような者。
でも、空っぽだったりただの欲しかないのを見ると、さすがに「それは名前を出す人達に失礼じゃないか?」と思うわけです。
で、人に対してあまり関心がない私でさえそう思うわけですから、そうでもない人の反応を考えると……人気を得ようとしたのに嫌われる、というパターンが発生していてもおかしくはないよなあと思うわけです。
でも、結構いるよなあこういう人……
発動!片付けモード!
不定期にではあるんですが、時折訪れるそれを私は「片付けモード」と呼んでいます。
転勤族の家庭育ちだからなのか、引っ越し作業とまでは行かずとも物が多くあることへの不安感とか、そういうのが原因なのかもしれませんが「やらねば燻る」ので始末が悪いシロモノです。
一般的に「片付けが出来ない」と言われることが多い発達障害ですが、多分片付けに「こだわり」がある人はこの辺そうでもないんじゃないかなあと思っています。
因みに、私の場合は片付けというより物の要不要を確認したい、場合によっては処分したいが衝動の原因なんじゃないかと思うので片付けそのものは下手です。
あと、収納とかディスプレイとかね。びっくりするほど下手。
オタクでもあるのでそういうグッズのディスプレイとか憧れるんですけどね、そういう経験が少ないこともあってか下手。
まあ、よく雑誌でも紹介されるようなオシャレな部屋を作れるわけではないということです。
いや、寧ろああいうタイプの部屋は……勿論これはその人の特性によって違うと思うので一概には言えないんですが、発達障害当事者向きの部屋作りとは違うかも……と思っています。
私の場合何かを部屋の中で無くしたりとか、何処に置いたっけみたいなことは少ないんですが、「見えないものは分からない」みたいなものがあるので「オシャレにこんなアイテム使って目隠し!」みたいなことをやってみようとすると、その試みが失敗することが多いです。
なので、出来る限り中身が分かる……とはいえ多少は目隠しじゃないけれどもそうした要素を求めたい……みたいな思考の結果、半透明のボックスだとかカゴというようなものに助けを求めることが多いです。
なんとなく、中身に何が入っていたか把握出来るので。
可視化しないと、ってのが強いんですよね。
因みに、この「片付けモード」はある程度のラインに達しない限り続くという厄介なやつです。
また今回は抗うつ剤を止めて別の薬が処方されたからか、「今後のことをよく考えた上での片付けに至らないと許せない」に達成ラインがあるようで、自分と向き合うという厄介さを抱えながらの作業です。
でもやらなきゃね。