切って綴って繕って。

発達障害持ちの悪足掻き。手芸とか絵とかゲーム話とかも。セクマイ話とか。

ランドセルの色と「~らしさ」の話。

 

比較的周辺に子供が多い地域に住んでいると、学校から下校していく小学生達の「まだまだ残っている元気さ」にびっくりしつつ、「いや~、ランドセルの色も増えたな~」などと年寄りのような感想を抱くことがあります。

実際、CMなんかではちょっとしたところにデザイン性を持たせていたりとか、軽くなったよ、とか、こんなにカラーが選べるよ、って感じで至れり尽くせり。

世の中、ランドセルはもう必要ないんではという意見もありますが、予期せぬ怪我なんかのダメージから何度か守ってもらった身としてはあった方がいいかも、と思っています。

 

しかしですよ。

割と女の子が水色だとかパステルカラーの紫とかピンクとか「赤以外」を見ることは多い一方、男の子はぎりぎり青を見たかなーぐらいに「黒以外」の色を見なくて。

あれだけカラフルな色出てるのに勿体なくないか?と。

そんなにみんな黒が好きか?と。

 

私は思考の方向性そのものが「世間一般」とずれている側ですし、その代わり「固定観念」とかいうものも無いんですが……どうなんだろうなって。

ただ、この問いについてそういう視点から見ると最早「何で女子のランドセルは赤で男子のランドセルは黒なんだ、いつからの思考なんだ」みたいな所にずるずると引き込まれていくので適度なところで考えておかないと思考の底無し沼にはまるので適度な所にとどめておきたいんですが。

 

トランスジェンダーの方々だと、「自分の心の性別の方の色のランドセルが欲しかった(黒ではなく赤とか、その逆)」というお話をされることもありますし、基本卒業まで毎日のように使うものだから余計に「色が持つ役割」とかが大きいんでしょうか。

 

かくいう私も、幼少期にねだったランドセルの色は黒だったようで。

当時の記憶なぞ無いので母から聞いたんですけどね。

しかし、現在に至るまで私は確かにLGBTの大きな枠には入る人間だという自覚はあるんですけど、トランスジェンダーなのかというとそうでもなく。

多分、単純に赤より黒が好きだったんじゃないかなあと。(適当)

ただ、当時はまだ幾つか赤と黒以外の色が出始めで、「女の子が赤以外の色を選ぶといじめのターゲットにされやすい」との話を聞いて不安になった母が幼少期の私をどう言いくるめたかは分かりませんが、赤にさせたようです。

残念ながらランドセルとかそれ以前の理由でいじめのターゲットにされてたんですがね。

 

とはいえこのように、「単純にこの色が好き」という派がいないわけではないと思うんですよ。小学校上がる前なら好きな色のひとつやふたつあるでしょうに。

だから、カラー展開が更に広がった現在なんて「好きな色選び放題じゃん!」なはずだし、もっとカラフルになるんだろうなーとか思っていたんですけど。

 

もしかして、現代に至っても本人に決定権がないのでは……。

 

ランドセルというのは、最近は祖父母に買ってもらうパターンも多いらしいですね。そこでもう祖父母が固定観念のまま「プレゼントよー」とばかりに品物渡されたらもう選ぶということは出来ないでしょうし。

仮に選びに行く、となった際にそのメンバーに固定観念の塊が一人でもいれば子供は気をきかせて遠慮して好きな色を言えない可能性が高い。

 

別に「男の子もピンクのランドセル背負えー!」みたいな強火の話ではないんですが、比較的「~らしさ」から解放されつつある女の子に対して、男の子は「~らしさ」から解放されていないのかな……とちょっと思ってしまうんですよね。

「男なんだから」とか「男らしく」ってのが見えている部分、見えていない部分でもまだまだ根深いのかもしれないなあと思った夕方の帰り道でした。

 

 

何で?どうして?と表現規制云々。

 

ふと思って勢いのままに書き出しているんですが。

もしかして、過去にしろ現在にしろ「表現規制したい人」っていうのは「ちびっ子の『何故何どうして』が苦手な人たち」なんじゃないかと。

 

いや、子供って難しい質問でも簡単にしてくるじゃないですか。

それは大人だと「社会の常識」とかの箱に投げ入れれば解決するような話だったりするんですけど、その箱がない子供は遠慮なくぶん投げて来ますよね。

 

それに向き合う時、その人の思考強度が試されてると思うんですよ。

 

子供と一緒に考えるスタイルでも、幾つかヒントを与えて子供に考えさせるスタイルでも何でも良いんですけど、子供のそうした疑問に対して「常識だから」とかあとはとりあえず叱ってしまう人いるじゃないですか。

その「常識」とは?と問われた場合そういう人たちは自分の言葉でそれを語れるんでしょうか。

 

常識って考えてみたら変化するもので、そこまで「昔」と言えない時代では地球が丸いっていう考えは常識ではなかったわけで。

そうなってくると、ここ何十年かの間の常識ってもっと変化してるんじゃないですか?

 

例えば、映画の釣りバカシリーズで会議中のシーン。禁煙でも分煙でもなく、堂々とみんな煙草すぱすぱしてるし灰皿がどーん!とある。今のドラマや映画だとそういうのなかなか見ないし、現実もそうですよね。

(因みに、個人的には分煙とかしてあれば喫煙者の方々に対して何かしらの負の感情は持ってません。寧ろ、マナーの悪い一部喫煙者のせいでちゃんとした喫煙者の人の肩身が狭くなるのは嫌だなあ派)

 

で、何が言いたいかというと。

 

色んな視点、思考することをしなくなった人は、改めて漠然としていたり一筋縄ではいかない大きさの物事を思考しろと言われた時に「面倒くさい」「嫌だ」ではない、ポジティブな感情を持ってくれるのか。

正直、自分が手に入れた「常識とか思考パターンの箱」を壊すようなことをしたいと思えるかと言われれば、私も面倒だなあと思いますし。

ただ、その面倒と向き合わずに放棄するっていうのは悪手だと思うんですよ。

 

よく表現規制賛成側の人たちは「過度な暴力やグロテスク、性描写は子供に悪影響だから」などをもっともらしく掲げますが。

 

それって、「作品の意図や含まれている意味合いを子供は理解出来ない」って考えているってことなんでしょうかね。

寧ろ、その路線で行くとバラエティとかドラマもどっこいどっこいな気がしますが。

それとも、「自分達がその作品の意図を考えたくないから」なんですかね。

 

結構、「規制しなければ!」っていう人たちの意見を眺めていると「で?」ってなるパターンがあるんですよね。

だいたいその理由は向こうの落ち度からの失敗体験が切っ掛けだったりとか、自分が見て不快だから、とか。

「表現」っていう大きなものを扱うのに、理由がぼんやりとしている。

 

理由がぼんやりとしているのは、それ以上の思考構築をしていない、思考強度の弱さに見えてしまうんですよね。

自分が持っている「常識」の箱に化け物がいるかもしれないのに、見たくないから開けることも再構築することもない。

それで「表現」を語るのは、己の身を滅ぼしかねない諸刃の刃だよなあ、と。

 

……という、朝の思いつきから考えた雑記でした。

 

当事者向けと、定型向けと。(NHKの番組観ながら)

 

 

NHK発達障害者についての特集をあちこちの番組でやっていたので、当事者としてはやっぱり気になるので色々観てました。

常日頃から情報を収集しているわけではないので、今になって気付いたこととかもあるんですが。(過剰適応とかそういうの。人の中に居るときに感じる疲労はこれか!とか)

とはいえ、やはりこう……その番組は「当事者向け100%」ではないんだなあと。まず「発達障害とは何か」みたいな基礎情報の紹介から入りますからね。

 

でも、よくよく考えたらそれが当たり前だ。

 

今の社会は定型発達の人が生きやすいシステムだし、割合的にも多いのはそっち側なので発達障害を一切知らない人は何も知らなくて。

もうそれこそ、ADHDにしろASD、LDについてなんとなくでさえ知らない。

でもそれって、逆に私が他の事柄について知らないことと変わらないなって。

 

それは例えば職業だとかに限らず、他の障害とか病気についても「身近な人で該当する人」がいなければ分からないものだと思うし、それは発達障害も定型発達も変わらないんですよね。

だからこそ、色んな時間帯で、色んな番組で紹介されるだけありがたいのかなあと。

見た目で分かるものではないからこそ、特に。

 

 

正直、こういう番組で発達障害の「能力」にばかり注目されてしまうのも不安にはなるんですけどね。

それを「能力」と考えられるかは分からないですし、「能力」に過剰期待をする親や家族、学校、社会が出来上がってしまうこともありうるので。

(実際、その辺の厄介な話は発達障害という存在が浸透していく度に何度か出てくる)

でも、飛び抜けた能力がない人もいることをちゃんとフォローしてくれる辺り、やっぱりNHKさんのいいところだなあって。

 

当事者は、成人していたり自分であれこれ情報収集出来るようになれば自分で情報集めたり対策したりしますからそれなりに知識も頭に入っておりますが、関わって来なかった人からすると「え~、そんなん怠けとどう違うのよ~」とかの認識からなかなか変わらないものでしょうし。

いや、こっちは生きる難易度がノーマルでもイージーでもないんだよ!ハードモードなんだよナイトメアなんだよ!というのがなかなか伝わらないのはまあ仕方ないっちゃあ仕方ないんでしょうね。

それに、定型発達だからって生きやすい世の中かと言われればどうなんだろうねえと言わざるを得ないと言いますか……ねえ?

 

ただ、色んな番組を観ていて思ったのが、「少しだけほっとした」っていう、小さいけどポジティブな感想で。

小さいうちから発達障害について向き合えるのなら、二次障害に苦しむ確率も減るかもしれない。今の成人済み発達障害者で苦しんでる人の場合、私のように寧ろ二次障害が深刻なんじゃが、っていうパターンもありますから。

だから、今後がどうなるかはわからなくとも、とりあえず受け皿が広がりつつある、少しだけでも、広がってるっていうのが嬉しくて。

 

自分がその受け皿に入れなかったことは時代的に仕方ないことだし、それはそれで時代が流れてるんだなってことなので。

とはいえ、こうして色々と後に続く発達障害の後輩的な存在を見ると、「自分に出来る悪あがきはやろう」ってなりますね。

二次障害とかまあ色々あるんですけど、生きて存在することが「ここに自分達がいる」っていう証明なので。

 

娯楽と過敏。

 

先日、弟が友人に連れられてバンドのライブに行くことになったと聞いた。

弟は音楽の好みこそロキノンからヴィジュアル系からその他色々聞くのだけれど(ヴィジュアル系に関しては私が聞いてた影響もある)、ライブに一度も行ったことが無い。

ライブハウスなりなんなりそういう場所に行きやすい土地にいたこともあるのに、行ったことはないらしい。

元々インドア趣味が基本の弟なのでそれをあれこれと言うつもりはないし、CDというか音源の方を好む人は割といるので、それにも突っ込む気はなく。

 

ただただ、私が「羨ましい!」とじたばたしているだけのアレだったりする。

 

聴覚過敏を持つ私が、だ。

 

一般的に聴覚過敏と聞くと、大きな音を嫌うイメージだろうし、だいたいは大きな音で無くとも個々のしんどい音があり、それでゴリゴリと体力も精神力も奪われていくのが常だ。

正直、ショッピングモールに行くときは体力が多少ある日でも短時間で全てを持って行かれ、寝込むレベルで苦手である。

 

しかし、私は一時期行ける時は好きなバンドのライブに行っていた、バンギャの端くれで。

とはいえ発達障害と二次障害持ちなので、他のバンギャ仲間のようにツアーが発表されれば遠征であちこち飛び回る、そういう所までは出来なかったけれどもライブやライブハウスに行くことは大切な娯楽だった。

 

とはいえ、これも私の場合である。

友人の中にも発達障害者がいるので「どうよ?」と聞いてみると、やはりライブハウス等の音は様々混ざっていたり、大きかったり、予期せぬ音が入ったりするので苦手という人もいた。

結構、「この系統の音がダメ」とか、「この音域がしんどい」とか聴覚過敏も様々なんだなあと思う日々だったりするし、私も自覚してからかなり経っている今でも「あ、この音苦手か……?」とか気付くことが多い。

世の中の音が全部脳に持ち込まれるからね。仕方ないね。

 

正直、私もライブに行くのは翌日寝込む可能性を頭に入れて行っていた。

寝込むなら行くなよ、と言われそうではあるけれどこれが貴重な時間だったりする。

普段浴びない程の楽器の音や歓声、その場の熱気に「酔える」心地良い時間だったりするからだ。

好きな音に溺れられる、というか。

好きな音と世界に溺れて酔って、音に合わせて動ける時間は過敏があっても「楽しい」ものには違いなかった。

 

聴覚過敏対策によく耳栓が話題に上るけれど、「自分の好きな音」を把握しておいたり、そういう音で他の音の不快感を誤魔化す手法もある。

なので、娯楽ついでに苦手な音だけではなく、好きな音を探すのもいいんじゃないかなあ。(CDの沢山入った棚を漁りながら)

 

脳が過敏な私たち+お題

眠い。

眠いし身体も疲れを訴えているのに眠れない。

いくら日常茶飯事とはいえもうちょいどうにかならないかな、などと毎度毎度思います。

日中に色々な刺激を無意識に浴びているので、脳が情報処理しようとしてるのかね……等と仮説を立ててみたりしますし、様々な対策も取っているんですがそれで確実に寝れるわけではないのが感覚過敏の辛い所。

 

なので、ちょっと暇潰しに書こうとしたら気になるお題を見つけたので。

 

今週のお題「理想の老後」

 

老後。

老後ってなんでしょうね。

果たして自分にはどんな老後が待ち受けているのか、なんて書き方をするとちょっとネガティブな流れになりますが。

正直、私はもう15年以上様々な薬(医師の処方したもの)を飲んでたりするので「世間が言う老後を迎えられるのか?」とか思ったりします。もしかしたら、他にも似たような考えの方もいらっしゃるかもしれませんが。

 

ただ、自分で楽しめる趣味が沢山あるとか、したことないことに挑戦してみるおじいちゃんやらおばあちゃんはスゲーカッコいいので、そういう人でありたいです。

難易度がそこそこ難しいゲームをやってる人もいるじゃないですか。今のご高齢の方って成人してもまだテレビがあるかどうか、二度目の成人(つまり40歳)とかになってもファミコンあるかどうかって世代ですし。

 

そうなってくると「スマホのこの明かりはなんや」とか、「えすえぬなんちゃらは怖い物なんやろ?」みたいな感じになりやすいでしょうし、そうなるのも仕方ないのかなと思うんですよ。

だけどそんな中にPS4とかでアサシンクリードとかにチャレンジしてる人もいて、そういうのがカッコいいなって。

 

私たちだって、生まれた時にはすでにテレビはあるしゲームとか漫画、アニメの類いは周りにありましたが、技術って進化するでしょう?

私たちはそういう技術発展に強い、とか余裕かましてるとあっという間についていけなくなる可能性が高いと思うんです。

 

「あっ、やべ。今の技術全く分からん」とこの先どこかで思ったとしても、とりあえずチャレンジしてみよう、触ってみようっていう老後……というかお年寄りになりたいですね。

 

 

ADHD&ASD&LD

 

Amazonで一時品切れにまでなった話題の本、「ケーキの切れない非行少年たち」を先日購入して読み終えました。

正直、「彼、彼女が辿った道は私の『もしも』だったかもしれない」と思わされましたね。喉元に「そうなるかもしれないんだぞ」と突きつけられた気分。

 

というのも、私がASD……アスペルガー症候群などと呼ばれている(今はなんかその辺の枠が色々変化してますがまあ分かりやすく)発達障害持ちでして。多分ADHDもあります。LDに関しては「今までそれを実感しなかっただけ」かもしれません。

 

これ、本当に厄介なんですけど外見じゃ分からないんですよね。他の病の方でも外見では分からない方がいらっしゃいますが。

ある程度行動や言動を見ていて、「あれ?もしやお仲間では……?」とぼんやり当事者同士が分かるかも、とかはありますが。一見しただけじゃ無理。

 

私が診断を受けた頃がやっと発達障害の話題が出始めて、専門書籍はだいたい海外の翻訳くらいの時期で。しかも診断のきっかけは深刻な二次障害で大きな病院の精神科に移ったからでした。

そうなってくると、同年代やそれより上の方は成人してかなり経ってから「もしかして?」となるわけですよね。

 

最近はやっと小さいうちから定期検診などで発達のでこぼこが見つかって、なんとか工夫していきましょうか!ってなるようになりましたが(その分胡散臭い本や人物も増えましたが)、正直当事者である自分でも自分の扱いに苦労しているので、こりゃあ親や学校の先生は大変だよなあと思ってます。

 

あの、ぶっちゃけね、発達障害児っていじめの標的になりやすいどころか、秒でロックオンされるようなもんなんですよ。

視覚や聴覚に過敏があったり、身体の使い方が下手だったり、集団に合わせるのが下手だったり。

私は親が転勤族で小学生時代何度か転校しましたが、標的にされなかった事の方がないと思います。逆に「あとこれくらい耐えていれば転校するからいいか」と諦めるレベルで。

 

ただこれは、私が重い二次障害を発症してからとはいえ病院で診断を受け、色々あっても警察のお世話にならずに済んできたからこそそういう風に言えるんですよね。

これが、もっと違う環境だったら。

 

子供の発達のでこぼこに気付かない親、精神的に追い詰められているのが見て分かるレベルでも病院に行くことを許されなかったら。

同じ土地でずっといじめの被害に耐え続けなければいけなかったら。

こうした「もしも」は沢山ありますが、「被害者が加害者になる」という構図はなんというか、きついものがあります。

 

勿論、罪は罪ですよ。

ただ、それしか選択肢を与えられていなければそれを選ぶしかなくて。

もっと色々な選択肢を知っていれば、その罪を選ぶことなんてなかったかもしれない。

 

考えれば考えるほど、願うことが増えていきますね。

 

分かるからこそ、という話。

 

私の友人が仮面ライダージオウの終わり方を非常に熱く語ってくれて、私も似たような感性の持ち主なので「分かる!分かるよ!!」と何度も頷いておりました。

平成ライダーという存在を大団円で終わらせられるわけはなく、むしろ大団円で終わらせたらそれぞれの作品で主人公達が足掻いた結果を濁らせてしまうよね、という話にも至りました。

 

とはいえ、私も全部観て来たわけでもないのでアレなんですが、平成ライダーにしろ他の漫画やゲーム、そしてそうしたもの以外で……例えば手芸なんかもそうですが、「何かの知識があったり、物事に気付きやすい」と「他の人より更に良い意味で苦しんだり楽しんだり、作品に共感できるな」と。

 

例えば先程の仮面ライダーでは、鎧武の世界に早い段階で「ユグドラシル」という単語が入った会社が出ますよね。

北欧神話を少しかじった人は、その時点で「あれっ?」ってなると思うんですよ。

(そもそも脚本の方が有名なあの人なので……ということは一旦置いといて)

後半の方の果物に「ヨモツヘグイ」とか出るじゃないですか。もうこの時点では作品の流れそのものが大変なことになっていますからその単語が意味することが分からなくとも「なんかヤバいんだろうな」と伝わりますが。

日本神話をちょっとでもかじった人は「アカーン!!!(某芸人さん風に)」なると思うんですよ。

完全に駄目なやつやん!って頭を抱える状態というか。

SAN値チェックさせられるというか。

 

なんというか、色々な作品って見る角度を変えて……だけじゃなく、知識があるともっと楽しめるというか、「あー!そういうことかー!!」ってなるんだなあといい歳してからよく分かりましたね。

そういう意味では、あまり興味の無い分野でももう少し早い内に触れておきたかったとか思いますね。因みに私の場合は世界史がそれです。