切って綴って繕って。

発達障害持ちの悪足掻き。手芸とか絵とかゲーム話とかも。セクマイ話とか。

何で?どうして?と表現規制云々。

 

ふと思って勢いのままに書き出しているんですが。

もしかして、過去にしろ現在にしろ「表現規制したい人」っていうのは「ちびっ子の『何故何どうして』が苦手な人たち」なんじゃないかと。

 

いや、子供って難しい質問でも簡単にしてくるじゃないですか。

それは大人だと「社会の常識」とかの箱に投げ入れれば解決するような話だったりするんですけど、その箱がない子供は遠慮なくぶん投げて来ますよね。

 

それに向き合う時、その人の思考強度が試されてると思うんですよ。

 

子供と一緒に考えるスタイルでも、幾つかヒントを与えて子供に考えさせるスタイルでも何でも良いんですけど、子供のそうした疑問に対して「常識だから」とかあとはとりあえず叱ってしまう人いるじゃないですか。

その「常識」とは?と問われた場合そういう人たちは自分の言葉でそれを語れるんでしょうか。

 

常識って考えてみたら変化するもので、そこまで「昔」と言えない時代では地球が丸いっていう考えは常識ではなかったわけで。

そうなってくると、ここ何十年かの間の常識ってもっと変化してるんじゃないですか?

 

例えば、映画の釣りバカシリーズで会議中のシーン。禁煙でも分煙でもなく、堂々とみんな煙草すぱすぱしてるし灰皿がどーん!とある。今のドラマや映画だとそういうのなかなか見ないし、現実もそうですよね。

(因みに、個人的には分煙とかしてあれば喫煙者の方々に対して何かしらの負の感情は持ってません。寧ろ、マナーの悪い一部喫煙者のせいでちゃんとした喫煙者の人の肩身が狭くなるのは嫌だなあ派)

 

で、何が言いたいかというと。

 

色んな視点、思考することをしなくなった人は、改めて漠然としていたり一筋縄ではいかない大きさの物事を思考しろと言われた時に「面倒くさい」「嫌だ」ではない、ポジティブな感情を持ってくれるのか。

正直、自分が手に入れた「常識とか思考パターンの箱」を壊すようなことをしたいと思えるかと言われれば、私も面倒だなあと思いますし。

ただ、その面倒と向き合わずに放棄するっていうのは悪手だと思うんですよ。

 

よく表現規制賛成側の人たちは「過度な暴力やグロテスク、性描写は子供に悪影響だから」などをもっともらしく掲げますが。

 

それって、「作品の意図や含まれている意味合いを子供は理解出来ない」って考えているってことなんでしょうかね。

寧ろ、その路線で行くとバラエティとかドラマもどっこいどっこいな気がしますが。

それとも、「自分達がその作品の意図を考えたくないから」なんですかね。

 

結構、「規制しなければ!」っていう人たちの意見を眺めていると「で?」ってなるパターンがあるんですよね。

だいたいその理由は向こうの落ち度からの失敗体験が切っ掛けだったりとか、自分が見て不快だから、とか。

「表現」っていう大きなものを扱うのに、理由がぼんやりとしている。

 

理由がぼんやりとしているのは、それ以上の思考構築をしていない、思考強度の弱さに見えてしまうんですよね。

自分が持っている「常識」の箱に化け物がいるかもしれないのに、見たくないから開けることも再構築することもない。

それで「表現」を語るのは、己の身を滅ぼしかねない諸刃の刃だよなあ、と。

 

……という、朝の思いつきから考えた雑記でした。